2012年4月2日月曜日

格差のお話。

数日間京都に行ったり東京行ったりしていろんな人とお話してきました。

その中の一つとして、「格差」っていうキーワードがよく出てきたので考えてみました。


僕が「格差をなくせ」と日本でいう人に聞きたいのは、

「具体的には何を指して
いるのか?」ということです。

そしてまあだいたいの人が年金とか一票の格差とか言うわけなので、

その二つに触れながら進めますが、

年金の構造上の欠陥は多くの専門家が指摘しています。

僕は専門家でもなければ専攻しているわけではないので

細かいところは省きますが、代替案は既に存在しているわけです。

じゃあ何故その案が実現しないかというと、

今の案のほうがいい人が存在し、その人々の意見を政治家が汲み取っているからでしょう。


すなわち、それは複雑な制度の維持の中で存在する多くの「利権」であり、

その利権を得るのは若者ではなく国家組織の上にいる老人たちです。

一票の格差も一緒です。

制度の改革を望む人々がいる一方で、

現行の選挙制度を崩されると困る老人たちが存在する。

何かを変えるときに必ず踏むべきプロセスが、老獪な人々の

巧みな制度整備によってマイノリティの意見が反映されないように

「仕組まれている」のです。


その状況を踏まえ、我々世代がただ声高に叫ぶことに果たして意味があるのか?

もちろんそこに意味を見出して活動している人はいるでしょう。

ただ大多数の我々世代の若者は制度を変えることに多くの情熱を注いではいません。


ならもう割り切って、無意味なデモやら集会やらに参加する暇があれば

多少年金が少ないことくらいには動じないくらいの所得を得られるように

自己研鑽に励んだほうがよくないですか?


こんなことをいうと諦めと無関心の若者の象徴のように聞こえるかもしれませんが、

こんなことを言わなければいけないのは民主主義の制度下で

我々の意見を反映させる方法が僕には思いつかないからです。
(少なくとも僕がこれから生きて活躍できる期間のうちに、という意味で)

国家を信頼できる(と国民が思える)時代はとうに終焉を迎え、

我々世代は平和だと言われるこの国である種の「サバイバル」状態に

あるように思われます。


その中で格差だの苦しいだのってわらわら群がって

遠吠えのように叫び続けることにはあまり意味を感じ得ないのですが、

何か間違ってますかね?

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